本能 2008/3/12 印刷用はこちら
前庭に植えた朴の若木が、その年は貧弱な葉なみで、無事に育つだろうかと、心細いおもいをさせていたのが、二冬を越したこの春には、おどろくほどの活力にみちて芽が伸び、やがて逞しい成長力を象徴するように、特有の巾広い円みがかった深緑の葉が、枝々にしげりあってゆく。雨の降る日など窓から見ていると、雨滴がころころと白く光ってころがり落ち、なかなか趣のある眺めである。
ところが最近、葉の緑が妙に色あせて見えるばかりか、日がたつにつれつやが失せてカサカサに乾いてしまう。それに、どこから集って来るのか、無数のあおばえが葉に群がり、日ごとにその数をましてゆく。試みに葉の裏を調べておどろいた。これはまた、おびたゞしいあぶら虫の行列である。この虫が葉の汁を吸いとつては分泌する甘い汁の香りをかぎつけて、あおばえが集ってくるのだ。葉の1枚ごとに吸血鬼が群がって、養分を吸いとるのでは、葉の枯れるのも無理のないことだが、さてこのあぶら虫はどこからやって来たのかと調べてみると、蟻が運んで来るものとわかった。小さな蟻が木の根もとに巣を作っていて、それがひっきりなしに木を昇ったり降りたりしている。彼等は、運んだ油虫に葉の養分を吸いとらせ、その分泌液を餌として摂取するのである。ちょうど人間が牧畜を営むようなものである。あおばえは侵入者であり蟻の生存権を侵害しているわけである。
◇◇
庭の一隅に行われている生存現象をまのあたりにして、私は全く驚歎のおもいを深めた。
あの小さな蟻のどこに、こんな深い智慧がかくされているのだろうか。彼等には進歩した頭脳のはたらきから出る智慧などありはしない。ただ本能の仂きのまゝに動いているにすぎないのだ。
本能とはそのものを生かすために、自然が与えた力といおうか。この本能の中にみとめられる自然の意志、自然のはたらきは、神秘といおうか、奇蹟といおうか、全く凄じいまでの迫力をもっている。
ところで、人間の場合を考えると、意識すると否とにかゝわらず、本能におどらされているという点では、蟻と変りがないといえよう。たゞ、蟻と人間とのちがいは、人間には、本能を正しく行使する精神のはたらきをもっているという点である。
朴の葉に油虫を運ぶ蟻は、ひたむきに食本能におどらされているだけであって、それが木に与える苦痛とか、人間に与える不快とかは問題ではない。彼等はたゞひたすら、甘美な食餌を供給する油虫をはこべばそれでよいのである。この場合油虫と蟻との間には、相互扶助の関係がなり立っているが、これとても意識から生じたものではなく、たまたま本能に結び合わされた利益関係にすぎないのだ。
たゞ驚かずにいられぬことは、こういう智慧のはたらきが、万物を生かす自然の意志として、生物を動かしているという事実である。
人間は本能をもち、しかも本能にのみ飜奔されないところに、人間としての価値をたもつものである。真に人間らしい人間の生活を営むためには、本能を与えて生かそうとする自然の意志、神の心をさとって、本能を拒まず、本能に囚はれずに生きることを知るべきであり、信心はこのことを教えているとさとるべきであろう。
<昭和31年8月31日>
灯 巻頭言集Tより抜粋
|